オリンピックの開会式を見て笑ってしまった。アナウンサーが「多様性と調和」をあまりにも強調するものだから。そしてそこで展開されていた「多様性」が非常に限定的なものだったから。
多様性−ダイバーシティ−の種類は大きく2つに分けられる。一つ目がデモグラフィー型ダイバーシティ。これは性別や国籍・年齢など、見ただけで分かる外見的な多様性を指す。二つ目はタスク型ダイバーシティ。職務経験や教育経験等、知見や能力の差異である。さらにこれに加えてオピニオンダイバーシティ、つまり意見の相違を3つ目に挙げるケースもある。
オリンピックの開会式で殊更強調されていた「多様性」は、デモグラフィー型ダイバーシティに当たるものであり、さらにその中で扱われている属性は数えるほどのものだった。日本の多様性の捉え方をこういった形で全世界に発信してしまったことは何というかその…ちょっと恥ずかしいけれど、まあこれが今の精一杯なのだろうし、これを変えていくために私がもっと頑張らなきゃ!などと妙な決意を固めた次第である。
さて、先に述べた3つのダイバーシティはどれも、自分も他者も(すぐには)変化しないことが前提のように思える。カラフルなレゴブロックをざらざらと混ぜ合わせているイメージだ。色んなブロックを組み合わせて大きくしたり、見せる面によって印象を変えることはできるけれど、赤いブロックはどこに置いても赤いまま変わらない。
でも本当は人というのは、内側も外側もあやふやで揺らめいているものなのではないだろうか。時々に変化する自分の心の有り様や、気まぐれにベクトルを変えてしまう興味関心を受け入れることが、多様性を推し進めて行く中では一番大事なことではないかと思う。自分の心の多様性だ。
小説家の平野啓一郎は、人間というのはもともと分割可能な存在で対人関係ごとに異なった自分があり、他人によって自分が引き出されるのだという「分人主義」を提唱した。私が言いたいのはそれとは少し違っていて、他者や他者に与える影響は関係なく、自分の中の複数のwantsを認めようということだ。自分個人のオピニオンダイバーシティを大切にすると言ったほうがわかりやすいかもしれない。
女性らしい魅力を持ちたい自分と男性に負けないキャリアアップをしたい自分とか。母として家族に尽くしたい自分となりふり構わず好きなことで稼ぎたい自分とか。「一家の大黒柱」として強くありたい自分と趣味に生きたい自分とか。(例はいかにもステロタイプで恐縮ですが)人の中には相反する欲求があるだろう。
そういった矛盾したwantsを何かの枠(例えば自分の年齢とか)に当てはめて他方を切り捨ててしまうのではなくて、仕方がないやといって一旦受け入れていくことが大事なんじゃないかと思っている。どれもこれも自分なのだし。時々まじめな自分が、昨日はこういうことを言ってたよね、初志貫徹って言葉を知らないの、と迫ってくるのだけれど、まあまあと言って宥めつつ、「今」やりたいことを選ぶことも必要だと思うのだ。
最近私がやっていることでいいなと思うのは、「LIFE DESIGN」[1]という本にあった「グッドタイム日誌」だ(うららちゃんに教えてもらいました)。定期的に自分の活動内容と考察、熱中度とそこから湧いてくるエネルギーを書く。
それで見えてきたものは、私自身は表現することが大好きで、作業中はフロー状態になるけど、エネルギーの消耗も激しく回復するのにも時間がかかる。やらなきゃいけないことはあるけど、すぐ怠けたくなってしまう。友達といる時間がすごく大事だけど、ひとりでいる時間もすごく好き。みたいなこと。ここから自分自身の本当のwantsに気づき、人生のデザインにつなげていくわけだが、この作業だけでも自分の色んな面を客観的に見ることができて面白い。
自分自身の心に多様性があることを知り、思いもよらぬ考え方や選択をする自分に興味を持ち、受け入れること、揺れ惑う自分を認めること、まずはそこから始めたい。自分のことからやっていかないと、他者の多様性なんて受け入れられないと思うのだ。
文:真鍋薫子
イラスト:斉藤重之
●出典●
[1] Bill Burnett (著), Dave Evans (著), 千葉 敏生 (翻訳), LIFE DESIGN―スタンフォード式 最高の人生設計, 早川書房(2017)