昨年の春くらいから、デッサンの練習を最低月1回、できれば2回はするようにしている。
紙と鉛筆。道具立てはシンプルだけれど、デッサンの奥は深い。
悩みどころは無数にあって、数時間もすると頭が痺れるくらいにぐったりする。自分の癖や限界を突きつけられてため息が出る。でも発見と学びに満ちていて、終わった後のワインが美味しい。自然と「今ここ」に集中できるマインドフルな時間でもある。
デッサンは、ちょうど2年くらい前、研究で行き詰まって出口なんてどこにもないように思えた時期に、本来の自分─等身大の発見の喜びとともに生きること─を思い出させてくれた、私にとって特別な存在でもある。脳全体を使う力を鍛え、その上心に自由を与えてくれる人生の大切なパートナー、といったところだ。
いくらコンスタントに描き続けたいと思っていても、時間を作り続けるのは難しい。そこで、月に1回程度時間を割く用意があるくらいに描く意思のある仲間を募り、さらに、講師の方にも入っていただいて、デッサンのコミュニティを主宰することにした[1]。
そうした活動を通じて実感しているのは、デッサンと、私たちが大学院で叩き込まれ、仕事上でも大切にしている「システムズエンジニアリング(Systems Engineering)[2]」という仕組みづくりの方法論との間には、多くの共通点があるということだ。
二者が多くの共通点を持っているのは、おそらく偶然ではない。それぞれが、膨大な人たちの汗と涙と(ときには血と)試行錯誤の蓄積を経て、物事を形づくる上での普遍的なアプローチを内包した結果、多くの共通点を持つに至ったのだろう。
そこで、今回から数回にわたり、両者に共通する「物事を形作る上での普遍的なアプローチ」について、「デッサンを描く」ことを起点に書いてみたいと思う。
「時々目を細めて、焦点をぼやかしてモチーフを見てみるといいよ」。
デッサンを描いていると、そうアドバイスされることがある。全体的な特徴や構造を捉えるには、あえてぼんやり見るくらいがいいらしい。
デッサンの熟達者と私のような素人との間には、無数の点において歴然とした差がある。ものを捉える視点、インプットの質、コンセプトの構築力、手を動かす運動能力(上級者には「デッサン筋」が備わっているらしい)、表現したい世界観を限られた時間内で紙に落とし込む判断の速さや表現力etc...。中でも、「プロセスを分解し、全体を捉えてから徐々にディテイルを描き込んでいく技術」は入門者が学ぶべき重要な要素のひとつだろう。
デッサンの描き方を知る彼ら彼女らは、基本的に、ラフな線で全体像を落とし込んでから、捉える対象を徐々に具象に移行させ、少しずつディテイルを書き込んでいく。一方の素人は、つい細部に囚われそこから離れることができない。全体的なラフがしっくり来ていないのに、人物の輪郭線が気になって何度も書き直してみたり、形も取れていないのについちょっとした模様を追ってしまったり。結局、手戻りばかりが多くて、いつまで経っても描きたいものが描けない。
そこで講師が言う。
「ちょっと細部に目が行き過ぎているようだから、あえてぼんやりと全体を眺めてみたら」と。
ああ、そうだった、またやってしまった。
全体像を捉えたいのに細部を追ってしまう、囚われてしまう。
そう。頭では理解しているのだ。まずは全体を捉えてから徐々に細部を見ていくことが大切だと頭で理解していても、そして、そのように描くと決めて紙に向かっていたとしても、実際にそのように手を動かすことは、至難の技なのだ。
もちろん、基本的な画力や経験値が不足しているために、「ここではこのくらい抑えておけば大丈夫」と自信が持てずに細部を描き込んでしまうこともある。だが、コミュニティ内で気づきを共有してみると、そうした不安への対処も含めて、それぞれが持つ思考の癖が、そのままデッサンを描く行為に現れている場合がほとんどであることがよくわかる。
一方、システムズエンジニアリングの重要な考え方として、「段階的詳細化(stepwise refinement)」という概念がある。システム全体を高い抽象度で捉えた上で、構成要素となるサブシステムに分解し、サブシステムをさらに詳細化していく。行きつ戻りつしながらこうした分解のプロセスを進めていくのだが、それでも、その時々の分析または設計の抽象度は明確にコントロールされる。
いや、システムズエンジニアリングの段階的詳細化だって、デッサン同様実行するのは難しい。だが、抽象度をコントロールしないと、複雑なシステムを設計し他者と共有することも、成功裏に実装することもできない。だからこそ、そのためのフレームやツールが充実する。ツールを上手く活用することで、経験が浅い人であっても、抽象度をコントールするためのサポートを得ることができる。その意味でシステムズエンジニアリングは、デッサンよりも初心者が学び、活用しやすいよう成長してきたと言えるかもしれない。
そう言えば、注目しているアーティストのひとり、三瓶玲奈さんも先日こんなことをつぶやいていた。
全体の特徴や構造を鮮明に捉えたいなら、時にはティッシュも絵の具も変わらぬ"白い塊"にしか見えないくらいに、対象をあえてぼんやりと見てみることも必要なのだろう。
そう考えると、デッサンを描くことだってこんな風に捉えることができるかもしれない。ティッシュと絵の具が同じに見えるくらいに抽象度を上げて全体をぼんやりと見てみれば、描きあがったデッサンの上手い下手など目に映ることもない。ただ、デッサンという行為を通じた発見の喜びが捉えられていればそれでよいのだ、と。
文:佐竹麗
イラスト:斉藤重之
●脚注●
[1] ここでは詳細には触れないが、これが本当に贅沢な活動に育っていて、私にとって大きな財産になっている。ルコちゃんも運営サイドとして参加している。ちなみに彼女は美術部出身で私にとってはアートの先輩でもある。
[2] システムズエンジニアリング(Systems Engineering)とは、「transdisciplinary and integrative approach to enable the successful realization, use, and retirement of engineered systems, using systems principles and concepts, and scientific, technological, and management methods.」(INCOSE,2021)と定義される方法論で、日本語では、「システムの実現を成功させることができる複数の専分野にまたがるアプローチおよび手段 」(最新システムエンジニアリング情報館,2021)と訳される。慶應大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科では、仕組みづくりの方法論としてその基礎を学ぶ。
●出典●
INCOSE,"Systems Engineering" https://www.incose.org/systems-engineering(2021/07/19最終確認).
最新システムエンジニアリング情報館 "言葉の定義" http://se.rdy.jp/definition.html(2021/07/19最終確認).